違和感の正体 

私は温泉が好きです。  

友達と行ったり、一人で行ったり・・・ 

家のお風呂とは違った癒しがあります。 

幸いなことに、私の住む出雲には多くの温泉があります。 

美人の湯、ランプの湯、いちじく温泉 ・・・ 

先日も、暇を持て余したので一人で近くの温泉へ。  

温泉タイム。  

温泉から、家に帰って・・・ 

母「どこ行っとった?」

僕「温泉行ってきた」 

母「一人で?」 

僕「うん。」 

母「すごいねあんたは」

僕「・・・?」  

 

なんか変だ。 

少なくとも、母は、僕が一人で温泉に行けることがすごいらしい。 

真に受けるような言葉ではないかもしれないけど、 

ここは敢えて真に受けてみよう。

 

母は、一人で温泉に行ったことをすごいと言った。 

どういう意味だろう。 

僕が一人で出かけられるようになってる事がすごいのか? 

(まぁ、一時期引きこもりがちだったし。

一人なのに温泉に行ける度胸がすごいのか?  

友達も一緒じゃないのに公共施設を利用できる事がすごいのか?

少なくとも、我が家には一人で何かをすることにハードルがあるようだ。 

一人で、買い物をしたら、ランニングしたら、釣りをしたら、山に登ったら、すごい。 

なぜだろう? 

僕が人の目が気になるのは、自分が一人で行動している時。

なぜか、複数でいるときよりも、人の視線が冷たく感じて、ソワソワしてしまう。  

おそらく僕は、一人でいるのは寂しい人、惨めな人、魅力がない人だと、勝手に思い込んでしまっている。  

そうではないと頭では理解していても、自然と他人の視線を気にする。  

友達といる時は、 

そんなこと一切気にならないから、 

出かけるときは友達に付き添ってもらおう・・・ 

いやいや、25歳にもなって?  

それに僕は男だし。 

25歳男、外出時付き人の必要あり 

いやいや、自分ってそんな弱い人間だったっけ?笑

好きなところへ行けて、好きなことができて、好きな物を食べる。 

ただそれだけのこと。

一人かどうかなんてのは関係ない。 

すごいとか言うんじゃないよ。 

僕の一人は独りのほうなんだから。 

孤りじゃないだけ、まだマシかもしれないけど。 

なぜか他人が一人でいると、

かっこいいって思うのに、 

自分がいざ、一人ってなると、 

オドオドするんだろう。  

僕は、街を歩いてる人のバックグラウンドなんて知らない。当然っちゃ当然だけど。 

だから、他人が一人を選択できる人だと無意識のうちに自覚している。 

どういうことか? 

例えば、恋人いる人が一人でいるって、 

選択肢がある中の一人であって、 

仕方なく一人でいるわけではない。

対して、恋人がいない人は、 

選択肢がない上での一人になる。  

一人でいる時の余裕というか、 

一人でも一人じゃない感が強い。 

自分の友達だったり、恋人の有無は、把握してる。当たり前。 

他人のことは知らないのに、 

自分のことは、

はっきり、くっきり分かっているから、 

他人の秘めた力が大きく見えすぎてしまうのでは?

底知れない潜在能力を持っているものだと、 

勝手に思ってしまっている。  

だから自分なんてとか、思っちゃう。 

選択肢の幅が、潜在能力の大きさ。 

ここを伸ばさないと。

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